ウィルバーによれば、いま集合的に確立されつつあるグリーンの確率空間とは、ブーマライティス(=意地悪なグリーンのミーム)という歪んだかたちで現実化されてしまいかねないような状態にあるという。そこにコスモスの習慣として定着しつつあるのは、豊かな感受性とマイノリティへの温かなまなざしにあふれたグリーンではなく、「ポリティカル・コレクトネス」の美名のもとにあらゆる階層的発言を暴力的にとりしまるフラットランドの思想警察としてのグリーンなのだ。
そしてウィルバーはそのさらなる原因をオレンジの確率空間に求める。近代において集合的に実現されたオレンジの確率波とは、実はすでに健全さを欠いたもの――フラットランドへと堕ち廃れたもの――だったのである。コスモスという大河は、そのオレンジの波において、自己抑圧的な習慣を身につけてしまったのだ。その病理的な習慣が今まさにグリーンへと伝播しつつあるのであり、放っておくとやがてはティールやターコイズの波をもねじまげることになるであろう。
他方でウィルバーはまた、近代化における価値領域の差異化のプロセスをとおして生まれ出るべきであった領域とは「真・善・美」のビッグ・スリーだけではなく、究極的関心としてのスピリチュアリティ〔霊性〕を含めた「真・善・美・霊」というビッグ・フォーであったという。
そして近代において善〔道徳〕と美〔芸術〕が真〔科学〕の一人勝ちを喰いとめることができなかったのは、そこに本来あるはずの霊性〔究極的関心としてのスピリチュアリティ〕が消え失せていたからだというのである。オレンジの道徳、オレンジの芸術、オレンジの科学、オレンジの霊性。その4つ目が失われていたために、3つ目の暴走を止めることができなかったのだ。
そしてウィルバーはそのさらなる原因をオレンジの確率空間に求める。近代において集合的に実現されたオレンジの確率波とは、実はすでに健全さを欠いたもの――フラットランドへと堕ち廃れたもの――だったのである。コスモスという大河は、そのオレンジの波において、自己抑圧的な習慣を身につけてしまったのだ。その病理的な習慣が今まさにグリーンへと伝播しつつあるのであり、放っておくとやがてはティールやターコイズの波をもねじまげることになるであろう。
他方でウィルバーはまた、近代化における価値領域の差異化のプロセスをとおして生まれ出るべきであった領域とは「真・善・美」のビッグ・スリーだけではなく、究極的関心としてのスピリチュアリティ〔霊性〕を含めた「真・善・美・霊」というビッグ・フォーであったという。
そして近代において善〔道徳〕と美〔芸術〕が真〔科学〕の一人勝ちを喰いとめることができなかったのは、そこに本来あるはずの霊性〔究極的関心としてのスピリチュアリティ〕が消え失せていたからだというのである。オレンジの道徳、オレンジの芸術、オレンジの科学、オレンジの霊性。その4つ目が失われていたために、3つ目の暴走を止めることができなかったのだ。